ノーブルなサファイアの青

 

今を遡ることおよそ三十数年。ちょうど年も押し詰まった暮れのこの時期に、私は香港で新店舗開店準備に大わらわの日々を送っていた。

その任務とは、通常大手企業なのでよく見受けられる、既存の海外支店への異動とは大きく異なり、地方都市の一宝石店が無謀にも香港の一流ホテル「ホテルペニンシュラ」に支店をオープンするにあたっての、現地での会社登記から始まる文字通りの一からの起業であった。

当時、私はその宝石販売会社でも陸の孤島、あるいはテンノジ村などと陰で呼ばれていた、JR天王寺駅のいわゆる駅ビル、天王寺ステーションデパート内にある、そのニックネームにたがわぬ、うだつの上がらぬ支店の店長を背任したばかり。乏しい店の売上向上のため、四天王寺さん詣りのおばあちゃん相手に宝石屋とは名ばかり、財布や袋物中心の細かい商売に腐心する毎日を送っていたのである。

9月だったか10月だったか、なにせ昔の事で記憶もあやふやなのだが、毎月月初めに心斎橋にある、その会社の本店で行われる全店朝礼に出席した際の事。

香港随一と云われるペニンシュラホテル内ショッピングアーケードへの出店の話を誇らしげに全社員の前でぶち上げる先代社長の訓示を、私は驚きながらも、自分にはおよそ無関係、まったくの他人事として聞き流していたのであった。

ところが数日後、何かの用事で本店を訪れた際、偶然出会った、当時、「箕面の般若」と恐れられていた営業部長に呼び止められ、「お前、ちょっと来い」と部長室に招じ入れられたのである。

根が小心な私は、てっきり何らかのお叱りを受けるものと恐怖に慄きながら進められた椅子に畏まっていると、「お前香港行かへんか?」と唐突に告げられ、予想外の展開にさらに肝を潰す結果となった。

さて、実際このうらぶれたテンノジ村の私がその人選に上ったのには裏がある。

その年の初め、会社の福利厚生の一環として、今後の国際社会化を見据え、社員に英会話クラスを無償で提供するというプランが突然発表された。

受講者の条件は、会社が指定した有望社員?と後は希望者自由参加という事。

もちろん私は指定外であったものの、当時大手書店で美人キャッチセールスに英語のカセットテープ教材をローンでまんまとつかまされたのをバネに、何十万かであった教材費のモトを取り戻すべく、飽き性の自分としては珍しく、当時発売されたばかりのSONYウォークマンで地道に通勤途上の英語自習を続けていたのである。

そんな私にとっては、早朝とは言えネイティブの講師が会社に訪れ、週二回のレッスンを無料に授けてくれるというのは正に棚から牡丹餅、受講する以外に選択肢はなかった。

さて、実際授業を始めるにあたっては受講者の英語能力に応じてのクラス分けが必要との事。そのため、予め全員に英語の実力テストを行うという事で、受講希望者三十名ほどが本社の一室に集められての筆記およびリスニングの試験を受けさせられたのである。

さてその結果、まあ日頃の精進の成果か、大学英文科卒などのツワモノを抑え、私が見事一番の高得点。それに気を良くし、のんきに受講し始めて半年。判明したのがまさかの香港行きの選別とは。

というわけでカセットテープだけの英語教育歴という、まことに心もとない語学力を携えての海外赴任。当時は正直不安しかなかった。

ところが実際香港に着いてみると、案ずるよりも産むが易し。会社はちゃんと現地で日本語、広東語バイリンガルの人物をスーパーバイザーとして雇ってくれていたのに加え、当時はまだ英国領とは言え、一般の香港人の英語レベルもそれほど高くはなかったので、何とか拙い英会話同士で、コミュニケーションも曲りなりに取れたので一安心。

そんなことより、何よりも苦労したのが、文化社会風土の全く異なる外国で、企業を立ち上げ、一から店創りを行うという苦労。これは並大抵のものじゃ無い。

もちろん現地のコンサルタント会社に契約関係などの法律にかかわる事は万事お任せしていたのであるが、実際の店舗を作る工務店との折衝や、商品準備に関するこまごました事のいちいちが日本と勝手が違う、商習慣が違うという事で数々の障害が噴出した。

その結果、オープン予定の日程が目前に迫っても作業が全く追いつかないという緊急事態に発展し、もう連日の夜なべが続いたのである。

ペニンシュラホテルに出店するにあたってホテル側から提示された条件と言うのが、ペニンシュラから道路一本を挟んだ裏手にある、同じ系列のビジネスホテル、カオルンホテル(九龍酒店)のショッピングアーケードにも、もう一店舗出店すべしといった厳しいものだった。

ただし、当時バブル景気で絶好調だった日本の本社サイドは太っ腹。あっさりこの条件を呑んで、そこを店舗兼事務所にしようという事で、まずはカオルン店の工事を先行させた。そして、その半ば出来上がった店の店内で連日地道な作業が続けられたのであった。もちろん、その時分には現地の店舗スタッフもおおよその目途が付いていて、昼間はそういった人たちの手を借りて作業が進められたのであるが、何せあちらは契約社会、定時になったらきっちり帰さないといけない。そうすると残った仕事は日本人スタッフ、つまり香港支店の代表と私の二名に加え日本から助太刀に来ている幹部社員二名。これが私を除いては普段やったことも無い、値札付けやら、帳簿記入やらの細かい実務作業。もうみんな老眼鏡の鼻眼鏡でもって必死で、なれない値札付けやらを夜遅くまで続けたのであった。

もちろん、我々香港組も助っ人幹部も、宿舎はその店舗の上にあるカオルンホテルのシングルルーム。各人の滞在期間は、なんと一か月を超える過酷なものであった

さてそんな我々の唯一の息抜きが、毎晩遅くに頂く、変わり映えのしないホテルのビュッフェの食事ではなく、その後、その横にあるラウンジスペースで愉しみ、くつろぐ酒宴のひと時。

ネーザンロードに面したガラス張りのそのコーナーは、遠く香港島の百万ドルの夜景を望むことが出来、更にフィリピン人専属男性歌手の電子ピアノの弾き語りが毎夜催され、常連となった我々のリクエストを快く聞いてくれたのである。

或る晩、そのライオネルリッチーを彷彿とさせる美声の歌手を我々のテーブルによんで、一杯ご馳走しようという事で、お越しいただいて更にビックリ。なんと日本語、しかも大阪弁を達者に話されるではないか。

そこで、更に事情を突っ込んで聞いてみると、なんと彼は当時ミナミの夜の街では知る人ぞ知る、老舗サパークラブ「青い城」で長らく専属で同じようにピアノの弾語りをしてたとの事。

「わー、奇遇やなー。こんなとこでまさか『青い城』の名前聞くとは、懐かしわー!」と直属の上司、香港店支配人の肩書も、昔はけっこう遊び人であったであろう社長娘婿が感激して言うと、そのフィリピンのおっちゃんも感激して、「いや僕もこんなとこで第二のふるさとの大阪の人に会えるなんて、むっちゃ嬉しいわ、懐かしーなーホンマに!」と流暢な大阪弁で返すのを聴き、「俺の英語よかずっと上手いやないかこのオッサンの大阪弁」と微妙に落ち込んだものであった。

さて、青い城といえばブルーシャトー。ブルーシャトーと言えばブルーコメッツと昭和の少年にはピンとくるブルー繋がりという事で、本日のご紹介はブルーの宝石の代表格、ブルーサファイアの登場でございます。

さあ、ご見物の皆様、取りい出したるこちらのサファイア、数多巷に出回っているサファイアとは訳が違う、モノが違うから確と御覧じろ。

サファイアやルビーという、いわゆるコランダム宝石は色を改善するための加熱処理がもう常識の宝石業界にあって、このサファイアはなんとノンヒート、つまり非加熱。それにも関わらずのこのディープブルーの綺麗な発色。例えて言うなら何ら美容整形の恩恵を受けず素のままで美人女優と誉れも高い、高い・・・誰や?

とりあえず、それだけ希少にして貴重なブルーサファイア。その非加熱を証明するのはなんとこれも宝石の世界のアカデミー賞、世界に冠たるGIAのジェモロジカルリポート。しかもこのリポートには産地も明確にカンボジアと記されてある。ただし私の見るところ色目的にはミャンマー産の、深海のように深い青色、ロイヤルブルーに近いのではと思ったところ、さもありなん。ちゃんとGIAのコメントも、The color appearance of this stone is described in the trade as “Royal Blue” との記述がございます。

テンノジ村の私の感想なら心もとないでしょうが、これはGIAのお墨付き、間違いない!!

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