「好きな言葉はLet it beでしょうか」と語ったのは今をときめく、かの時の人ですが、これは元々ビートルズのポール・マッカートニーが作った名曲のタイトル。日本語にすれば、ありのままに、あるいは、なすがままという事らしいのです。よく似た歌のタイトルにディズニーの大ヒットアニメの主題歌「Let it go」というのもありましたけど、こちらの日本語の歌詞も「ありのままに」と歌われております。
さて、このLet it be あるいは Let it go という言葉、実は東洋のスピリチュアルな教えに深く根差した、有難い教えの言葉なのでございます。
実際、ポールマッカートニーはビートルズのメンバーの一人で印度オタクとしても有名なジョージ・ハリソンの影響によってインドの聖者、マハリシ・ヨーギーという人の下で瞑想とともに、ヒンドゥー教に根差した彼の教えも授かったという事。きっとこの let it be という言葉や歌詞の意味もそういった教えの影響があるのかも分かりません。
さて、仏教においても様々な偉いお坊さんが、このあるがままという事の大切さを説いておられます。
タイの伝説の高僧アチャン・チャーという人はその多くの著書の中で、「手放して生きる」という事を力説されておられますが、この仏教でいうところの手放し、いわゆる放下という教え、つまるところLet it be 、ありのままにという事につながるのでございます。
その歌声がなんとも魅力的だったカレン・カーペンターが亡くなってもう結構な年月がたちますが、今でも根強いファンにその人気が支えられているアメリカの兄妹ヴォーカルグループ、カーペンターズ。そのヒット曲の一つに「雨の日と月曜日は」という名曲がございます。その歌詞の節々に「雨の日と月曜日はいつも気が滅入ってしまう」というフレーズが出てまいります。
さて、では何故雨の日と月曜は気が滅入るのでしょうか?以下にその理由を述べよ、という設問が出たと致しましょう。
<濡れると鬱陶しいから><洗濯物が乾かないから><働きたくないから><職場にウザイ奴がいるから>。そのほか沢山の理由が挙げられることでしょう。この沢山な理由は「雨の日と月曜日」にオマケの様に付随して、どなた様のもとにも、もれなく一緒に訪れるのかというと、そうではありませんね。「雨の日と月曜日」という言葉から思い浮かぶあなたの思考ですね。雨の日も月曜日もただそれが事象として現れ、それをあなたの様々なバイアスによってゆがめられた思考によって、いろんなネガティブな理由を創造し、憂鬱な事だなーと結論付けているわけであります。これが世間でよく言われるところのマイナス思考のパターンです。
ならばこれを逆手にとって、プラス思考で前向きな楽しい人生を送りましょうという事を人生の指南書、自己啓発書みたいな本にはよく書かれてあります。例えば恵みの雨が大地を潤し、命を育んでくれてるのだわ、ありがとうの感謝の気持ちがあなたの憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれます。とか、こうして五体満足健康で働ける喜びをかみしめ、神仏に感謝の祈りを捧げつつ、今日一日を実りある日とするんだ、など。
しかし、思考というものはそんなに単純なものではございません。いくらプラス方向に思考を向けようとしても、思考というものはそう簡単に主の言う事は聞いてはくれません。聞いてくれないどころか、ほとんどの人間は自分の思考のシモベとなり、日々徒に喜怒哀楽の感情のいちいちに動転し、右往左往して生きている有様なのでございます。
それだけではございません、なにかの拍子で思考が肥大化し、暴走するととんでもない事件を巻き起こしたりもいたします。
例えば最近ですと、映画「ジョーカー」を観て主役の悪のヒーロー、ジョーカーに憧れ、電車内で人を殺そうとした人間がおりました。これなぞまさに思考の暴走、制御不能の狂気の仕業ではございませんか?
イギリスが生んだ天才劇作家ウィリアム・シェークスピアはこの様な言葉を残しております。「物事に良いも悪いもない。思考がそれを決める」
また、現代の最高のスピリチュアルティーチャーと呼ばれるエックハルト・トール氏はこの様に言っています。「思考を本物の自分であると思ってはならない」
さて、手放す生き方とはこの、マイナスであろうとプラスであろうと、思考そのものを手放す、ありのままの事象をありのままに受け止め、それに自分勝手な解釈やストーリー、その多くはネガティブなものですが、を付け加えない。つまり、これこそが Let it beの意味するところなのでございます。
実際この境地に至れば、人は真の平安、自由が得られるとされ、この境地こそが即ちエンライトメント、覚醒、悟りの境地。ブッダが説いた空なる場所なのでございます。
身の回りにいかなることが起きようとも、また自らの死が目前に迫ろうとも心が文字通り動じないようになる訳でございます。この境地を目指し、多くの修行僧や、様々な宗教の弟子たちは座禅や瞑想に励み、心の制御を手に入れようとしているわけなのでございますが、この道を極める事は決して安易な道ではございません。一生を空しく修行に費やし、老いさらばえ悲嘆に暮れて死にゆく者がほとんど。
ただ驚くべきは、この「好きな言葉はLet it be でしょうか」とのたまわった青年。彼はまだ三十才の若さにして、この好きな言葉の指し示す境地に既に達しているのではないかと思わざるを得ないのです。なにせあれだけマスコミやらSNS上での激しいバッシングを受け、もはや日本国中を敵に回したような状況。常人ならば精神を病むか、下手すりゃ、いっそ姫と二人で命を断って、あの世で見事添い遂げましょうぞ、とでもなるところ。それが彼はまるで馬耳東風、蛙の面に小便。一切ひるむ事も、キレル事も、落ち込む事も無く淡々として、しかも易々とその目的を達してしまったではございませんか!とても常人の成せる業ではございません。いや素晴らしい!きっと悟りに至った聖者、覚者にちがいありますまい。
浮世の垢にまみれる弁護士になるなんて止めて、いっそグルか教祖にでもなられたらいかがでしょうか?弁護士よりも多くの悩める人々を救えることができるはずですぞ、きっと!
という事で本日は、ありのままのサファイアのご紹介!
さてご覧いただいでおります、このすみれ色鮮やかなる宝石は、なんとサファイアなのでございます。それもなんと、カラーチェンジ、ノンヒート即ち、変色性のある非加熱サファイアなのでございます。
カラーチェンジと言いますと真っ先に思い浮かぶのはアレキサンドライト。しかしサファイアの中にも負けちゃいられないてんで、光源の色の変化で変色するものがございます。こちらのサファイア、太陽光の下でご覧いただきますと青みがかった紫、すなわちヴァイオレット、ご覧いただいているような綺麗な菫色を呈し、白熱光の下でご覧いただきますとなんと赤身のかかった紫、すなわちパープルに変化するのでございます。紫色の範囲のなかでの両極への色変わり。何ともノーブルな感じで、粋じゃございませんか。しかも内包物もサファイアにしては珍しいほどに少なく、その石の内部の様子は、昼間の雲一つない素晴らしい快晴を予感させるような、明方の菫色の空のように澄み渡っております。しかもカットも色石にありがちなアシンメトリーのアンバランスな粗い仕事ではなく、きちんと上下左右の対称性を保った綺麗な拵え。そして何と言っても、この綺麗な発色が、人の力を借りた加熱処理によってもたらされたものでないという点に値打ちがあるのでございます。
サファイアやルビーといったコランダム系の宝石は、一般に加熱処理され色の発色を促したり、改善するのが一般的で、今では宝石業界の常識として知らぬ人は居ないくらい。ただし、たまにはもちろん採掘されたままの状態、ありのままで美しいものがございます。それがこちらの石、非加熱サファイアなのでございます。
たまに、まったく宝石として魅力の無い石を非加熱と言うだけで法外な値段で売っているのを見かけたりしますが、それはインチキ。あくまで人と一緒で整形されていない生まれたままの美女と言うのがお値打ちなのでございます。こんなのは今の芸能界でも滅多にお目にかかれません、知らんけど。
さあ、そんな何の手も加えられてない、ありのままの美女が、生野の名工の手によって手造りされた豪華ラージメレダイア取り巻きのリング枠に収まって、燦然と神々しく輝くこの指輪。さて、この無添加無着色、菫色の絶世の美女を射止める果報者はどなたかな?
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